利己的な同情

朝、夜の間に降った雨に濡れる草を掻き分けて走る。犬がこちらを見てニコニコしながら並走する。途中で気になる女性を見つけて、犬が何度も彼女のほうへ行こうとするのを静止する。犬と一緒にその後ろ姿を見送ると、リュックに付いたマタニティマークが寂しそうに揺れていた。

 

30歳になるとだいたい自分勝手にやりたいことはやりきったかもしれないと考えはじめて、どこまでも利己的な自分でさえも他人のために身を捧げたくなってくる。という考えすらも利己的。

幼子を抱える友人や家族の近況を聞く。この前までは羨ましい気持ちのほうが優っていたが、最近は同情の気持ちのほうが強い。かわいそうだと思う。でも子供はかわいいからなんて言葉で誤魔化さないでほしいと彼や彼女の話を聞きながら願っている。母性や父性なんて神聖なものがすべての親に宿っているわけじゃないんだから、かわいそうに。不完全であってくれよ。ビデオ通話越しの相手の顔が歪んでいる。声が遅れている。そうやって「母親」像はひしゃげていく。そう、それでいいんだよ。

 

ネットでたまたま我が家の半分の世帯年収で子ども2人を育てている首都圏在住の夫婦を見て、首都圏でこれはしんどそうだなと外野なりの身勝手な感想を抱く。スクロールしていけばポイ活、食費の節約、光熱費のなんちゃらかんちゃら、と日々の努力が投稿からうかがえた。未来の資産である子供を育てているのにかわいそうだ。子供からしてももはや親ガチャではなく国ガチャだろう。テーブルですっかりぬるくなったミルクティーに掛けられた10%の消費税のゆくえを思う。

 

教員不足で公教育が崩壊しつつあるニュースを見て、授業だけならやるのにな、とぼんやり考える。別に今の仕事なんて私以外にも適任はいる。同じことを考えている教員免許持ちは多いだろう。特に私が所持している教科はコマ数が多いにもかかわらず保有者が少ないので、今でも毎年毎年臨時教員の声が掛かる。公教育を満足に受けられない先進国なんてあるだろうか。

 

ああ、かわいそうに。みんなかわいそうに。わたしもかわいそうに。